手元に一枚の写真が残った。
ペン型のガラスバッジ(積算線量計)を覗いている私を、高橋亨平先生が笑いながら見ている。2011年4月、子ども達と妊婦さんを守らなければ、と南相馬を回っていたとき、遠藤清次先生に原町中央産婦人科医院に連れて行っていただいた。亨平先生は、3.11以後も医院を開いていた。一括りに原発から30キロ圏内は屋内退避区域とされ、通りには人気がなく、商店もシャッターを降ろしていた。
亨平先生は、県の医師会に呼びかけ、薬を集め、街に残った人たちの健康を守った。放射能についても精通していらした。この困難な事態にどう対処していかなければならないかを語る先生の軽妙な語り口は、私達の緊張感をほぐしてくれ、とても興味深かった。レントゲン技師さんたちが付けるガラスバッジというものがあるんだよ。個人個人で生活パターンは違うんだから、ガラスバッジと行動記録をつけながら、被曝を避けてもらおう。こんな相談をした翌朝、奇しくも鎌田實先生から電話が入り、ガラスバッジの件が提案された。どこよりも早く、妊婦さんと子ども達に付けてもらい、一ヶ月ごとに結果を持って、南相馬に通った。亨平先生は、積算線量がやや高い赤ちゃんの家をご自身で測定され、除染のアドバイスや鉛のカーテンを特注して付けて差し上げていた。
2011年5月、ご自身にがんが見つかった。抗がん剤を打ちながらも外来診察を続けられ、事故後80人もの赤ちゃんを取り上げたと聞いた。
子どもは命なんだよ。子どもは未来なんだよ。
命は宇宙につながっている。
妊婦や子どもを守れない国に未来はない。
亨平先生の言葉は、お亡くなりになった今なお鮮明に私達の心の中に宿っている。