ブックタイトルグランドゼロ100号
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「グランドゼロ」は、訪問団やセミナーなどJCFの活動の様子、事務局からのお知らせなどを掲載した季刊誌です。
9GIVE&TAKE医療支援を標榜していたJCFに医療関係者は欠かせなかった。信州大学では、小児科、第二外科、第一内科、歯科口腔外科、そして中央検査室などが中心になってかかわってくれた。一方、ぼくはNGO組織の事務担当者として、彼らとのGive&Takeを考えていた。つまり、互いのメリットが成立すればいいと割り切ってJCFを運営していたのだ。当時のJCFにおけるメリットとは、チェルノブイリの人々のいのちが救えればそれでいいという一点。とても脱原発や原発に依存しない社会をつくるなどという、実現不可能な考えや想いにまでは至らなかった。なぜなら目の前に甲状腺がんや白血病の子どもたちがいたからだ。加えて言えば、高度な汚染地域からいったん避難したお年寄りたち(サマショールと呼ばれる)が戻ってきていたからだ。その人たちを日本の医療で救ってほしいという現地の切実な願いがJCFを動かすぼくにとっての一番の関心事であり使命だった。それさえ確約されれば、JCFは医療者(科学者)の研究に全面的に協力しよう、と考えた。そのために派遣団を構成し、その費用をかき集め、調査、治療、研究、支援を同時進行させる、という手法を採った。必要な費用は年間7000~8000万円。JCFの台所を切り回すのは大変だったが、多方面からお金をひっぱってくるのは事務局長の仕事だった。おかげで、金持ちオヤジや企業の青二才の担当者に頭を下げる術にだけはたけた。NGOの事務局長という役は、いわば「タイコ持ち」。そのようなぼくの仕事を現地で請負い、支えてくれたのがモチャロフだった。ぼくにとっては同時代、同状況を生き抜いた大切な戦友であり、タイコ持ち仲間だったと言える。裏切り1995年、あれほど激しく落ち込んだ旧ソ連の経済状況は回復し、人々が豊かになったことが目に見えてわかるようになってきた。その頃、肺がんプロジェクトが動き始めた。これは信大の第一内科がかかわってくれたのだが、カウンターパートとして交渉を行っていたミンスク腫瘍研究所の教授・ジャルコフの裏切りにあい頓挫した。当初予定では、高度に汚染されたゴメリ州・ベトカ地区の1000人、コントロールとしてポーランド国境に近い町シューチンの1000人、そしてリクビダートル(チェルノブイリ原発4号炉の除染作業者)1000人をパイロットとして検診。そしてその後、各1万人に検診の人数を増や