ブックタイトルグランドゼロ100号
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「グランドゼロ」は、訪問団やセミナーなどJCFの活動の様子、事務局からのお知らせなどを掲載した季刊誌です。
7オウム真理教関係者に間違われ、もう一度はビザの不備(手違い)によるものだったが、その時は身元引受人として厚顔な官僚や威圧的な兵士と真正面からやりあい、救出交渉に当たってくれた。1992年10月半ば、小児白血病プロジェクトの一環として免疫能調査のため血液輸送大作戦が行われた。28時間以内で子どもたちの血液を信州大学小児科のラボに運び込むことが条件の危険な仕事だった。この日、ゴメリ地方は猛烈な吹雪だったが、暴走ドライバー、ヨーシャが運転するキャラベルは750kmの距離を5時間で突っ走り、予定時間前にシュレメチボ空港に到着した。ずっと同行したモチャロフは余裕の表情で「ニエ・プロブレーマ(問題なし)」と親指を立てた。そして27時間後、大切な子どもたちの血液はラボにおさまった、というわけだ。初期JCFにおける旧ソ連内活動のすべてにモチャロフは深く関与している。事務局長の仕事チェルノブイリ支援に名を連ねた医師団の要望を、ぼくは事務局長として、「ハイ、ハイ」と聞いてきた。そして、それらのほとんどをかなえてきたつもりだ。先の血液輸送作戦もそのひとつ。97年の末梢血幹細胞移植もそのひとつ。2度にわたる信州大学病院での甲状腺がん精検も、ミンスクのユーリー・ジェミチク医師やゴメリのミハイル・ボガチェンコ医師の信大での研修もそのひとつだった。ミハイルなどは来日以来3カ月間の下宿まで引き受けた。もちろん無償で……だ。ミハイルは小児科の研修を受ける中で、病院とのコンタクトがうまくいかず「松本に来た意味がわからなくなった」と悩んだ。もともと大酒飲みのミハイルが、研修に意欲を示し、それまで禁酒していたのだが、その夜、切れた。ひそかに持参していたウオッカ2本を浴びるように飲ん左からモチャロフ、通訳のストレリツォフ・ダーシャ、菅谷医師