ブックタイトルグランドゼロ100号
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「グランドゼロ」は、訪問団やセミナーなどJCFの活動の様子、事務局からのお知らせなどを掲載した季刊誌です。
41汁や雑炊も応援して頂けるようにご協力よろしくお願いします。◎横山豊子1ウクライナのチェルノブイリ原発で爆発事故が起こったのは1986年4月26日。その5年前の6月に、雑誌『自然食通信』を創刊し、農薬や添加物を大量に消費しながら市場に送り出される食べ物の歪みに気づきはじめた人たちのなかから、全国で自然発生的に生まれた「有機農業・共同購入」の運動を紹介したり、足元の暮らしを見直す活動している人たちの交流の場にも誌面を開放しながら、資源や、エネルギーの浪費を抑え、「つつましい暮らし」に戻りませんかと提案していた。そうした行動の先に「原発の要らない暮らし」が実現されると考えていたのだが、8000キロも離れた遠いウクライナから、放射能は気流にのって飛んできてしまった。自分たちが住むこの国の原発をどうするのかが今後明確に問われることになると、小さな雑誌の全力を挙げて2回の「特集」を組んだが、同時に深い無力感に襲われてもいた。3年ほどは輸入食品の放射能値に国中が一喜一憂していたものの、しだいに平穏な日々が訪れたかにみえたある日、チェルノブイリ原発の風下に位置するベラルーシ共和国の子どもたちのために医療支援活動のNGOを立ち上げるという案内が届いた。記者会見の会場で初代事務局長になった高橋卓志さんの「理事を引き受ける方はいますか」という一言で、手を挙げ、JCFとの長い付き合いが始まることに。2自薦理事になったはいいが、初期のころは率直に言って、ひとりの市民としての目線というものが届きにくいな、という感じがあった。ひとつには扱う金額がかなり大きいことと、活動の専門性が高く、専門家にお任せするしかないというふうになりやすかったこともあったかと思われる。ミニコミ的雑誌運営のビンボー所帯では現地を訪れるのもかなりの負担だったが、やっぱり一度は自分の目で原発被害を受けた土地を見、そこで暮らさざるをえない人たちの話をじかに聞いてみなければと、99年夏、初めてスタディツアーに参加。当時のベラルーシの経済状況では先端的な医療を受けるのは不可能にちかいという厳しJCF理事会で鎌田理事長と横山監事(右)