ブックタイトルグランドゼロ100号

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グランドゼロ100号

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概要

「グランドゼロ」は、訪問団やセミナーなどJCFの活動の様子、事務局からのお知らせなどを掲載した季刊誌です。

38いった。現地医師達の自立・自助・自決をサポートしようというJCFの支援方針が実を結んでいった一歩一歩だった。JCF創立の初期から、小池先生と共にベラルーシに赴いた菅谷先生が、ベラルーシ国立甲状腺がんセンターに滞在し、甲状腺がんの手術法を革新的に変えていったのもこの頃だった。もうチェルノブイリを語りたくない、チェルノブイリという括りで自分達を見てほしくないという言葉を聞いたのは90年代の後半だったろうか。ベラルーシは独裁的なルカシェンコ大統領の統治下にあり、NGO活動も制限されるようになった。衛星通信を使ったカンファレンスも順調に進んで、日本に居ながら現地医師達と治療について話し合えるようになった。日本の中古医療機器を4トンコンテナいっぱい積んで、ベラルーシの病院に設置していたが、大統領令で中古機器は持ち込めなくなった。放射能災禍は長期スパンで見なければならないと言いつつも、目標が見えなくなっていた。「因果関係が証明されたか否かではなく、汚染地で起こる症例について、見ていく必要があります」と助言してくださったのは、広島の佐藤幸男先生だった。こうして、年に1、2回の訪問団を送り、関係をつないできた。JCF設立20周年の記念イベントを企画していた2011年3月、東日本大震災、福島第一原発事故によって、私達は恐怖のどん底に突き落とされた。日本で、チェルノブイリと同じレベルの事故が起きたのだ。モスクワやゴメリの友人達から「皆さんだいじょうぶですか」とメールや電話をいただいた。情けなかった。無力感に陥った。私達の20年間はなんだったんだろう。普通の生活が、のどかな自給自足の暮らしが、たった一回の事故で消されてしまう事を訴えてきたつもりだったのに……。1992年当時ベラルーシでのホールボディカウンター