ブックタイトルグランドゼロ100号

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グランドゼロ100号

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概要

「グランドゼロ」は、訪問団やセミナーなどJCFの活動の様子、事務局からのお知らせなどを掲載した季刊誌です。

36第100次訪問団神谷さだ子(JCF事務局長)7月7日から、第100次訪問団が出発する。1991年1月に第一次訪問団がロシア・ウクライナ・ベラルーシを訪問してから23年間で100回。別にスタディツアーは13回、この流れを一言ではとても語ることはできない。私にとっては、ひとつひとつの場面が皆鮮明に蘇ってくる。1992年8月、第9次訪問団に、特に問題意識も無く同行したことが、JCFとのつながりにスイッチが入ってしまった端緒だ。乾いた夏の大平原。チェルノブイリ原発の4号炉の前に立っても、なんの感慨も沸かなかった。しかし、緊急避難で人っ子一人居なくなったプリピャチの街、汚染された建材が片付けられ均された埋葬の村、200キロ離れているのにもかかわらず故郷を後にしなければならなかった人々に出会った時、原発事故の怖さに震撼したのだった。何よりも「子ども達を助けたい。何の罪も無い子ども達を守りたい」と一番放射能被害の大きかったベラルーシの専門家と協力し合ってきた。「一粒の子どもの涙は全人類の悲しみより重い」この象徴的な言葉がチェルノブイリに向かう私たちの内に去来した。それがこの100回の訪問の歴史と言える。当時ベラルーシの病院では日本の病院の常識は通じなかった。錆びたメス、使いまわす注射器、洗って干しては繰り返し使う包帯などなど。日本からできることはたくさんあった。未曾有の原発事故による放射能災害に現地の保健局・病院の医師たちは混乱していた。広島・長崎を経験した日本から、はるばる来てくれる日本人医師たち、と胸襟を開いて迎えてくれた。しかし「ヒバクシャ」への支援というひ1992年ボブルイスク地区病院で神谷事務局長(左)