ブックタイトルグランドゼロ100号
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「グランドゼロ」は、訪問団やセミナーなどJCFの活動の様子、事務局からのお知らせなどを掲載した季刊誌です。
13とを冷静に指摘した。野沢喜代(当時41歳)は、チェルノブイリの現状を伝える意志を持って参加したが、行く先々で本格化するチェルノブイリカタストロフィーを肌で感じたうえで、その実情を報道する方法について論じた。野沢も鎌田と同様に、早急な医療救援の必要性は認識しながらも、経済的な問題について危惧を持っていた。この旅の発案者、大友慶次(当時47歳)はメンバーの中で唯一の旧ソ連経験者であったため、出発前から多方面にわたっての資料収集を行なってきた。大友は生来のエコロジカルな発想から、原子力発電に頼らねばならない我々の生き方への問題提起を基に、いのちの救援への強い思いを打ち明け、現地の合意と協働のもとでの医療救援を早急に行なうべき、と主張した。キエフの小児病院で、瀕死の白血病の子どもたちを目の前にして、涙を流し続けたぼく(当時42歳)は、大友と同じく、救援組織の結成と医療専門家の派遣、あるいは子どもたちの日本での治療に取り組むべきと主張し、経済基盤に対する危惧は、このメンバーが取り組んできた実績に裏打ちされたネットワークを最大限に動かせば、必ず解決すると自信を持って答えた。「やろう!」、「無理だ!」、「いや、できる!」、「ではどのようにやるか?」という激論は、終着駅モスクワまでの道程の約半分、スモレンスクまで続いた。人類の未来に、大きな不安と恐怖を与え続けているチェルノブイリ原発。そのグランド・ゼロ(爆心地)への最接近は、ぼくたちに大きな危機感を与え、救援への活動を具体化させるに十分な動機を与えていた。そしてこの日が、日本チェルノブイリ連帯基金(JCF)がチェルノブイリ支援への第一歩を踏み出した日となった。激論が続くそのコンパートメントに、日本語が全くわからないモチャロフがいた。だが彼は、ぼくらの話にさかんに相槌をうっていた。違和感はまったくなかった。モチャロフはすべてわかっていたのだ。……これがJCFの起源である。しかしここには驚くべき事実が隠されていた。そのことをぼくはその後、モチャロフから聞くことになる。モチャロフ、そりゃないぜ!シューチンからミンスクへの帰りの車に話を戻そう。モチャロフは驚くべき話をぼくに語った。「チェルノブイリ支援を依頼したS氏の言葉は真実ではない。本当は合弁会社をモスクワからウクライナのキエフに展開するとき彼は法的問題を起こし、裁判所に罰金か社会貢献のどちらかを