ブックタイトルグランドゼロ100号

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グランドゼロ100号

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概要

「グランドゼロ」は、訪問団やセミナーなどJCFの活動の様子、事務局からのお知らせなどを掲載した季刊誌です。

12はマリーナの美しさに参ったんだろう」と言いながら(消極的に)参加を表明してくれた。夜汽車ぼくらがチェルノブイリに入り込むきっかけはS氏の言葉だった。彼は視察にかかわる旧ソ連国内の旅すべての費用とコーディネートは自分が負担する、とも言った。S氏からの要請により、91年1月、初めてのチェルノブイリ汚染地域の視察は行われた。鎌田、大友、ぼく、そして信越放送の野沢喜代ディレクターが参加した。S氏の言葉通り、モスクワからキエフ、ゴメリからミンスクへと完璧な国内サポートがぼくらを待っていた。そしてその中にモチャロフがいた。最初のチェルノブイリの旅を終え、厳寒の中をミンスクからモスクワに向う夜汽車に乗ったのが1月16日。10日間の汚染地域調査ではあったが、はるか8000kmかなたの日本から訪れたメンバーは、それぞれ強烈な印象を受けていた。列車のコンパートメントは、旅を終えた安堵感に浸るというよりも、汚染地域が与えたインパクトによる興奮が立ちこめ、窓際に置かれたアルメニアコニャックが減っていくに従って、旅の総括と以後の展開に関する議論が白熱化していった。医師の鎌田實(当時42歳)は、放射能汚染地域の住民、とくに子どもたちが「いのちの危機」にあること、それに対応できない医療体制の貧弱さを、訪れた病院で見せ付けられていた。そして、チェルノブイリ事故が身体のどの部分にどういった形であらわれているかを専門的な見地から具体的に示し、子どもたちのいのちを救うために何が必要かを考えていた。しかし、チェルノブイリの救援に、医療をもって踏み込むには金銭的なリスクが大きすぎるこ夜汽車で語り合う左から鎌田理事長、大友慶次さん