ブックタイトルグランドゼロ100号

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グランドゼロ100号

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概要

「グランドゼロ」は、訪問団やセミナーなどJCFの活動の様子、事務局からのお知らせなどを掲載した季刊誌です。

11何とフィルムに刻まれた日時が3年も4年も前のものだったのだ。中には10年前のものも流用されていた。ぼくらが渡したお金は、このプロジェクトには使われずどこかに消えたことになる。ジャルコフにかみついたのはモチャロフだった。モチャロフと仕事を初めて4年目、この時の彼の怒りは、JCFとの信頼関係が強固になっていたことを実感させるものだった。彼の怒りはおさまらなかった。そして「もうかかわらない方がいい」と言った。ぼくはそれを受け入れ、肺がんプロジェクトを撤退させた。子どもたちのいのちが危ない肺がんのコントロールとして定めたのはポーランド国境のシューチンだった。シューチンからミンスクまでの長時間の車移動はつらいものがあった。しかもプロジェクトが頓挫したやるせない思いの中での撤退だった。その車中、モチャロフはJCFとの出会いを話し始めた。アゼルバイジャンのバクーに生まれたモチャロフは、若くしてモスクワに出た。モスクワでいろんな仕事に就いたが、日本人S氏の経営する合弁会社(車のディーラー)に勤め、ロシア側の代表になった。そして91年、JCFと運命的な出会いをすることになった……と。じつは、その前年(1990年)の9月、神宮寺に美しいロシア女性を連れた中年の男性がやって来た。ぼくの友人でありJCF創設に尽力された大友慶次さんの知り合いだというS氏。ロシア美人の名はマリーナ・バベンコ。S氏はこんなことを言った。「モスクワで合弁会社をやっているが、ウクライナに事業展開をしようと思い周辺調査をした。するとチェルノブイリの影響があちこちに見られた。キエフの小児病棟は白血病の患者でいっぱいだった。経済危機のチェルノブイリ周辺では子どもたちのいのちが救えない。何とか子どもたちを救ってもらえないか」と。神宮寺に来る前には諏訪中央病院に行って鎌田さんに話をしてきた、とも言った。それがモスクワでのモチャロフのパートナー(上司)であるS氏だった。ぼくは興味を持った。なぜなら、ぼくの寺のふすま絵88枚は「原爆の図」の作者、丸木位里・俊夫妻の筆になる。そして、88年、四国電力伊方原発の出力調整実験の反対運動にぼくも加わった関係上、原発に関する情報はかなり豊富に周辺から集まっていた。そんなわけでぼくは「一度調査に入りたい」とS氏に言った。そしてさっそく神宮寺の屋根裏部屋に事務局を立ち上げ、第1次の調査団を送り出す準備を整えはじめた。鎌田さんは「じんさん(ぼくのこと)