ブックタイトルグランドゼロ100号

ページ
10/92

このページは グランドゼロ100号 の電子ブックに掲載されている10ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

グランドゼロ100号

ブックを読む

Flash版でブックを開く

概要

「グランドゼロ」は、訪問団やセミナーなどJCFの活動の様子、事務局からのお知らせなどを掲載した季刊誌です。

10し、原発事故と肺がんとの因果関係を探ろうとした。じつは91年、最初の訪問の時、ぼくらはミンスク大学の物理学教授・ペトリャーエフに恐ろしいものを見せられていたのである。それは炭化した肺の標本だった。何らかの原因で亡くなった除染作業者の肺を解剖し、標本化した写真のあちこちには、プルトニウムの痕跡が怪しく光っていた。ペトリャーエフは「もしこの人がもう少し生きていたら間違いなく肺がんを発症する」と言った。プルトニウムの妖光を発する肺の内部写真と彼のその言葉をぼくは忘れることができなかった。肺がんプロジェクトに入り込んだのはそのせいだ。91年当初、経済が困窮するベラルーシでは、外国からの支援を熱望していた。お金のない中で自国の子どもをいかに救うか、がベラルーシの医療関係者や行政の真摯な思いだった。ゴメリ州立病院の医師・タチアナ・シュミヒナなどはその典型で、互いに信頼し尊敬しあえる大切な存在だった。チェチェルスク地区保健局のセカチやターニャも同じだ。また、通訳をしてくれたイリーナ・チューリナやダーシャ、イリーナ・ニコラエバなどは、自国への深い憂いの中で、JCFの活動に期待し、その仕事を評価したうえで最大限の協力してくれた。しかし、経済が好転してきた95年ころから、JCFを「金づる」と考える連中が現れ始めた。たとえば、前述のジャルコフである。彼が一貫して言っていたのは「JCFは金と機材とサプライを出せばいい。あとはこちらがやる」であり、そのための多額なコーディネート料を提示してきたのである。しかしそれにぼくは耳をかさず、まず、パイロットに向かう準備段階として、3000人分のX線フィルム、現像液など一式を買うためのお金をミンスクに入れた。3カ月後、撮影は終わりフィルムがジャルコフのもとに到着したという報告があった。早速、久保医師のチームがミンスクに向かい読影を開始した。その時、同行した第一内科の医師が異常に気付いた。1991年1月左から鎌田理事長、高橋さん、右端大友慶次さん